「すべての放物線は相似」って、変じゃないですか?
Eテレ2355で、すべての放物線は相似*1と云ってました。
ネットで調べたら教科書にも載ってる常識だって。
でもボールを横に投げた時と、お手玉で投げ上げた時の...その放物線の軌跡って、
ボクにはどうしても同じに見えないんです。
数学で証明してる人がいました。
えっと...要するに...ボールを横に投げた時というのは、円弧の先端の...「角度の緩やかになった部分」を 思いっきり拡大したのと同じ状態だと云うことを数学で証明してる。
これっておかしくないですか?
拡大率を無制限に変えられると云うことは、すべての線を円弧の一部...放物線の一部と捉える事を許可しているのと同じだとおもう。
- これって、その放物線というのは、直線を含めたすべての曲面を内包してるということ。
これはもう「相似」ではないし、そもそも...直線とか曲線とかのカテゴリ分けが意味すらしてない。まあ実際、ベクトル図形で角を描くときって放物線で描かせてる...これは、その「放物線」自体がいろんな角度の曲線を内包してるからこそ描けるって証明してるような物で。
「いろんな角度の曲線を内包」...いろんな角度の曲線...これで相似とは(笑)
この理論の証明って破綻してるじゃん。
数学的に証明できても、定義からしておかしい理論って有るんですよ。
球体を分解して、再構成したとき...一個の球を分解したはずなのに、
数学的に分解した場合同じ球体がもう一個できちゃう。つまり倍に増える。みたいにね。
バナッハ=タルスキーのパラドックス - Wikipedia
これも多分、パラドックスだと思う。
追記。パラドックスだと思う...その理由。
その為に、あえて例に「球体」を持ってきたんですけどね( ̄∇ ̄o)ゞ😜
ボクが思うに...曲線の表現方法として、ベクトル図形
を使うことによって起こる矛盾。
- ベクトル図形でしか円弧を正しく表すことが出来ない。
昔、トランスピュータで3Dを描いたことがあったんですが、そのとき論理演算を組み合わせてました。 これって現実にはあり得ない世界も描けちゃうんですよ。例えば...「無限の平面」とか「完璧な球」とか。
バナッハ=タルスキーのパラドックスってのは「完璧な球」を...それを表すには論理演算とかの、理屈でしか出来ない表現を使ってしまったが為に起こる矛盾だと思ってます。
で、放物線の「曲線」なんですが...そもそもベクトル図形での曲線の正確な始点と終点って分かりますか?わかんないでしょ?だって無いもん。いくら拡大してもそこには曲線しか無い。だからベクトルなんですけどね。
球だけで構成されてるならば、拡大縮小すればすべて重なる。その通りです。
でもね...現実の放物線っていうのは手から離れた始点と着地なり受けるなりした終点があるんですよ。
理論上の放物線では「表現の方法上」始点と終点を消去せざるを得ない。っていうか...本来消してはならないものを消してしまった。
始点と終点がある現実の放物線を比較する。その始点と終点を切り取ったボックスを重ねても合いません。縦横の比率を変えて、さらに切り取るとか編集しなきゃ合うわけがないです。
だから...「放物線は相似」では無いんです。
ベクトルに変えた...表現方法を変えた、計算方法を変えたから
「それを表す式としての...表現上だけ」いかにも相似に見えるだけなんです。
注意。暴論カテゴリですので念のため。
昔から人を煙に巻くのが得意で、こんな妙な論文めいたこじつけなら結構こねられます。 ボク自身は、かなり真面目に書いるんですよ?( ̄∇ ̄o)ゞ
*1:拡大縮小するとすべて重なる